人を魅了し支配することに慣れた者の声だった。幸哉は、この男の声を長く聞いていてはいけないような気がした。
「君の名前は」
「八千丸 幸哉」
「風変わりな名だな」
「はっせんまる、と書いてやちまる。幸せかな、でゆきや。名前負けもいいとこだけど」
「君は幸せではないのか?」
面と向かってそんなことを問いかけられたのは生まれて初めてで、幸哉は一瞬答えに詰まった。この男といると、自分のペースに持っていけない。そのことがなんとも気分を落ち着かなくさせた。
―――助けてくれたって負い目がある上に、これだけ上物の男だったから、調子が出ないだけだ。
「行きずりの男にあそこまでハードなプレイを仕掛けられて、真っ裸で芋虫みたいにあんたのドアをけっ飛ばしてたんだぜ?一般的にはラッキーだとは言えねェんじゃねえの?」
「君は男娼なのか?」
やっぱりそう見られているんだという気持ちと、腹立たしい気持ちが半々で、幸哉は鼻で笑った。
「そう見える?」
「いや、男娼には見えない。プロにしては無防備すぎるし、そういうことが向いているようにも思えない。何故あんな危険な男についていった」
「寝るために決まってんだろ?オレは店やってたけど、あの日が閉店だったんだよ。気分がくさくさしてたし、失恋したばっかだし、相手は金持ちそうで見た目もまあまあだったから、丁度いいと思ったんだよ」
「君はそんなことばかりしているのか?」
「ああ、そうだよ。失業したし、男も欲しいし、たった今からホントにウリでもやるかな。何ならあんたどう?オレの最初の客にならない?」
自分に食指が動くはずのない相手に、嫌がらせのためにわざとそう言ってみた。何故か自分を落ち着かなくさせるこの男を、早く視界から消してしまいたかった。
「幾らだ」
と謎めいた男が言った。男の目には欲望はなく、ただ美術品でも鑑定するような眼差しで幸哉を強く見つめていた。
「君を買うことにする。君の値段は幾らだ?」
男の真意が分からなかった。得体の知れない汗が背中を伝うのを感じて、幸哉はこの男に恐怖を感じた。
「アレ見て誤解してるのかも知んないけど、オレSMとかゴメンだぜ?」
「私にはそういう趣味はない。自己紹介が遅れたが、私の名前は二階堂 理玖(にかいどう りく)。幾つかの会社を経営している」
男が一枚の名刺を差し出した。男の名刺は男が幾つもの会社の経営者であることを示しており、右上に幸哉にも見覚えのあるマークが入っていた。
「二階堂って、二階堂グループの?」
「二階堂 壮介は私の祖父だ」
幸哉は驚いた。二階堂壮介は一代で巨大企業グループを作り上げた伝説的な創業者だった。目の前の男は、日本有数の大金持ちのの御曹司だと名乗っているのだ。名を騙っているのかも知れないとは思わなかった。幸哉は、自分を揺るがす男の得体の知れない威圧感のわけが、それで説明が付くと思った。初めて見る人種だから圧倒されただけだったのだ。
「ますますわけ分かんねェなァ。そんな大金持ちのお坊ちゃんがオレみたいなのに何の用?何だかキナくせえよ、関わり合いになりたくねェな」
「私が怖いのか?」
理玖は微かに笑った。凄艶な笑みに幸哉は目をそらせなくなった。理玖は内ポケットから取り出した小切手帳にさらさらと何かを書き付けた。幸哉に渡された小切手には、10,000,000-と二階堂理玖のサインが書かれていた。
一千万円?
「まずはそれで3ヶ月間。必要経費は全てこちら持ちで。自分で客を引くより遙かに安全だし、君に満足すればさらに手当を出そう。悪い条件ではないだろう」
断られるとは夢にも思っていないような様子の、美しいが傲慢な男。
「あんた、いつもそんな風に札束で人の面ひっぱたくような真似してんの?」
「それが効果的だと思う場合には」
「あんた、嫌な男だな」
男が自分に何をさせるつもりか知らないが、どうせろくなことではないのだろう。
 それでもいい、と幸哉は思った。堕ちるところまで堕ちてしまえばいい。どうせ惜しむほどの体でもない。男が鰐の餌にするつもりか鎖につないでペットにでも飼うつもりなのか、特殊な性癖の道具にでもするつもりなのかは知らない。いずれにしても男が欲しがっているのはちょっと見られるこの顔と体だけ、人目に触れない闇で一時の慰みものにする、自分はそれだけの存在でしかないのだから。
「いいぜ。あんたに売るよ。よろしくな」
「契約成立だな。この瞬間から私のことをあんたなどと呼ぶな。理玖と呼べ。幸哉、今から契約満了まで、お前は私の恋人だ。いついかなる時でもそれを忘れるな」

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